[ 羽織るは香か ] 「鴆…?」 「シー……」 殊更に静かな小夜だった。明けるまでそう遠くはなかったが、未だ虫の音の響き渡る闇は深かった。 纏わり付くような熱を孕ませていた朱夏は、そう云えば幾分か収まりを見せ始めてきた頃合いか。それでも己の情人に抱き竦められ、耳朶に触れるか否かの距離で、あからさまな不穏の含まれた声色に撫でられれば途端、しっとりと熱を帯びてしまう躰はどうしようもない。 突然にもたらされた背中を覆う最早馴染みの体温は、囁くようにそして、心底愉しそうに腹の内を晒した。 「お前ぇを拐いに来たぜ」 「へぇ? ぬらりくらりと掴めねぇぬらりひょんを拐うたァ、また酔狂な奴がいたもんだ」 「ハ、酔わせるアンタがいけねぇよ」 云うが早いか、鴆は掬う仕草でリクオの背と膝下に腕を添え、そのまま横抱きに抱え上げる。するとふとかち合ったリクオの鮮紅の眸は先触れする高揚感の所為か艶やかに眇られ、妖しく口許を引き上げたかと思った瞬刻には、その妖美な唇に鴆は己のそれを吸われていた。 「ほら、早く連れ出さねぇと…姿晦まして逃げちまうぜ?」 「俺がお前を逃がしたことなんてあったかい? ――― 行くぞ」 ふわり、そう形容するのが一等な程に軽く、鳥の妖は最愛の恋人を抱えたまま静かに舞い上がった。 羽搏くでもなく、トーントーンと蹴るようにしてしかし、音も立てずに飛び続ける。 鴆に抱えられたままのリクオは、はらりはらりと自分たちの軌跡に羽が散っていることに気付き、それが傾き始めた月の蒼い淡いを受けほんのりと、ぼやけた光を返しながら舞うように流れていく様に見惚れていた。そして当人でさえ知らずに鴆の羽織を掴み、不思議と安堵で満たされていく心地の中で躰の全てを鴆に委せていた。 リクオ、と鴆が名を呼び、支える腕の中の恋人の顔を覗き込む。 僅かに目許へと朱を兆した眸を返され、ぞくりと胸の内がざわめいた。 「何処、連れて行く気だい? 人掠いの悪い兄さんよ」 「もうすぐさ」 屋敷から心做し離れた其の場所に辿り着くまで、二人の妖がそれから言葉を交えることはなかったが、互いに伝わる、触れている箇所からの脈を刻む音だけで、愛しく想う心緒を量るには十分だった。 * * * 「…すっげぇな」 「綺麗だろ」 降り立った鴆がリクオを下ろしたその場所は、果たして終わりが存在するのかという程に何処までも咲き乱れる見事な秋桜の群生の真ん中だった。 目を見張って驚くリクオの頬を、冷えた夜風が心地好く撫で上げていく。不思議に甘く香る秋桜の芳香に鼻孔を櫟られてリクオは、胸の奥がぞくりと熱を灯して粟立ったのが分かった。何処か切なささえ覚える性急なその感覚は確かに、閨で鴆を欲するときに滲む情念で。気が付けば再び後ろから抱き締めてきた情人の、馴染んだ愛しい血温と燻された薬草の香りに包まれれば、抗う気持ちなどは沸く筈もなかった。 躰の向きを変えてひたりと合わせたリクオは逸る欲情を抑えきれず、鴆の懐へ顔を埋めると深く息を吸い込んだ。 常なら安堵する鴆のやわらかな匂いと、二人を取り囲む秋桜の甘やかな香気とが混ざり合い、ずくずくと意識が溶けていくような痺れがリクオの躰を満たしていく。 「はぁ…っ」 「どうした、もう我慢ならねぇか?」 「鴆…此処の、秋桜……、」 「ああ…長い年月が経って妖気を帯びる、そういう類いの奴だ。とは云っても宵の内だけで、明けちまえばただの秋桜さ…お前と同じでな」 リクオを抱き締めたまま鴆は、背中から生い茂る秋桜の中へとさりと音を立てて倒れ込んだ。二人を取り巻く妖気を纏った秋桜の芳香が、それだけで酔ってしまう程に一層濃さを増し、まるでこのままそちらの界に閉じ込められ、二度と抜け出せなくなるのではという錯覚へと誘う。 鴆は抱き籠めるリクオの前髪をやさしく掻き揚げ、己を見詰めてくる、既に熱の浮かんだ鮮紅の濡れた眸を暫し堪能すると、伸し掛かる愛しい相手の重さを受け止めながら両の手のひらで頬を包み、唇を重ねた。 鴆の着物の衿を握り締めていたリクオの手に力が入り、もっとと強請る仕草で舌先をちろりと差し出してきたところで鴆は、赤銅の猛禽の眸を細めて口付けを解いた。 すかさずリクオの耳朶へと顔を寄せ、じとりとした情欲を混ぜた声色で低く、甘く、囁きを吹き込む。 「最高に気持ちよくしてやるよ」 掠められた互いの頬が、とても熱かった。 * * * 「あっ、ん、ん…っぁあ、ふぁ…」 「リクオ…」 「ぜ、っあ、鴆…ぜ、ん…っ」 リクオから溢れ出る嬌声は抑えられることなく零れ続け、真下から突き上げる鴆だけでなくリクオ自身の耳をも犯し、密事をしているのだという事実への興奮に二人は理性を溶かされきっていた。 「ン…もっと、ほし…鴆…ん、ぁあっ」 立ち籠める花香の効き目かリクオは、淡く色付いた胸の尖りを鴆の手のひらが掠めるだけでも堪らなくなっていた。いつになく艶やかに啼き、喉を反らせて喘ぐ様は何処までも鴆の雄を煽る。 深く繋がった箇所は最早、二人の境界すらも曖昧な程に熱くふやけ、リクオの屹立の先からは迸る劣情のままに蜜が滴っていた。 己を感じて切なげに求めてくるリクオが、愛おしくて仕方ない。 鴆は穿つ腰を止めて最愛の恋人の頬に手を当て、その輪郭を確かめるようにそっとなぞった。見下ろしてくる、潤みを湛えた艶やかな眸が切なげに瞬かれたのを、薄らと眇めた目で大丈夫だと返してやる。リクオの震える睫毛が、自らの身の内で持て余す程に膨れている欲情への怯えを伝えてきたが、後頭部へと手を回して自分の上へと躰を倒すよう促し、目尻に溜まった涙を丁寧に舐め取ってから瞼へとひとつ、鴆は音を立てて唇を押し当てた。 「全部、やるよ…お前ぇの為に、お前ぇが満足するまで、な」 「……鴆…」 「怖がらなくていい、大丈夫だ」 「うあ、や、あ…んん、…っ…」 性急に再開された激しい抽挿に、リクオのしなやかな躰が跳ねる。 縋るように倒れ込んだままのリクオが、揺すり上げられながらも鴆へと口付け歯列を割って舌を滑り込ませ、その唇を食んでその先の愛撫を求めた。 「…ふ、…ん、はぁ…」 リクオから零れる、鼻から抜ける悩ましい吐息と、舌と舌とが擦れ合う悦楽に鴆は、沸き上がる愛念の想いに胸を締め付けられる。 リクオの傍に在り、リクオを守りたい。それは常に己の内にある鴆の芯だ。 ともすれば泣きたくなってしまうような思考をけれども、それは紛うことのない確かな情愛と決して揺らがない忠誠の証であると、鴆自身が一番よく識っている。 互いに探るような口付けは次第に貪る激しさへと移り、吸い上げて絡めては、逃がさないとばかりに鴆はリクオを追い上げる。 すると突然、伸し掛かる重みが幾分か和らぎ軽くなった。はっとして鴆が閉じていた瞼を開くと、先程まで乱れて揺れていた長い絹のようなリクオの銀髪が、胡桃色の幼い、甘やかな柔らかさを含ませた短髪へと変わってる。 見回せば、微かな陽の光が辺りを淡く色付かせ始めていた。 「つ、ぁん…ぜん、く…」 少し高くなった声の呻きに引き戻され、狭まった繋がりの痛みで負担が掛からぬよう、鴆はリクオの下腹へと指を掛け、ゆるゆると快楽を引き出してやる。 直ぐ様ふやけた表情へと変わっていったリクオは、鴆からもたらされる愛撫に背中を戦慄かせ、己の中を鴆に満たされていく感覚に絶頂へと導かれた。 「ん…っ、ぁ、あ……はっ、んんっ」 息を呑んだリクオが、切なく眉根を寄せて精を吐くと、咥え込まれた後腔のきつい締め付けに鴆もまた、息も整わぬままのリクオの中へと欲を迸らせた。 「はぁ…はぁ、ん……ごめん…最後、こっちの体になっちゃって…」 「何云ってやがる、んなもん関係ねぇよ。どっちの体躯でも、お前はお前だ」 そうだろ? といらえを返し、荒く吐き出される呼吸を落ち着かせながら鴆はリクオを抱きすくめ、淡い瞼を静かに唇で撫でた。 「……んっ…、っ…」 達したばかりの満たされた余韻に浸りながら、今度はリクオの唇が鴆の頬を辿り、首筋へと降りていく。そして鴆に僅かばかりの痛みを与え、愛慕の印しを捺し残した。 「ねぇ…鴆くん」 「ん? 何だ、リクオ」 仄かに目許を紅く染め、名を呼び視線を結ばせた相手に再び口付ければ、ゆっくりゆっくりとその唇を食み、舌先で誘うようになぞり上げる。擽ったく込み上げてくる愛しさを含ませてリクオは、応えるように絡められてきた鴆の舌を自分の咥内へと導いた。 * * * すっかりと周囲が朝陽に包まれた頃、リクオと鴆は秋を運ぶ風に流され揺れる秋桜畑の中に座り込み、互いの肩に凭れていた。微睡みそうになる心地好い体温に自然、綻ぶ口許に嬉しさが滲む。 「リクオ、手、出してみな」 疑問符を浮かべながらも、リクオは胸の辺りに両の手のひらを差し出す。するとその小振りなその手の上にとさっと、透明の袋に包まれた色とりどりの星屑が載せられた。 「金平糖だ」 「お前、甘いモン好きだろ?」 「好きだけど…どうしてまた金平糖?」 「残るモン渡すの、苦手なんだよ…そいつなら食っちまえばなくなるだろ?」 「? ――― ああ、そっか誕生日か、ボクの」 「まぁその…そういうこった」 鴆の云わんとする意を察したリクオは、受け取ったばかりの金平糖を一粒摘まみ口へと転がすとそのまま、鴆の唇へと素早く重ねた。そして少しばかり溶け出した甘いそれを舌先で、相手の腔内へ押し込めるように口移した。 鼻腔に抜ける、仄かな砂糖の香り。擽る動きで鴆の舌を絡め捕り、その狭間で転がされる小さな粒はあっという間に消えてしまった。 互いの甘い甘い腔内を擦り合わせる仕草で撫で上げ残味を余すことなく味わう程に、相手の唾液と混じり合い、愛しい人と己の境を見失いそうになる感覚が心髄を痺れさせる。 「ほら、これでボクも君も、この金平糖の味は忘れられない。物じゃないからいつまでも失わない。ねぇ鴆くん、こっちの方が余程、形の残るプレゼントより厄介なものだと思わない?」 ね? と小首を傾げ、悪戯成功とばかりに向けられた笑みは未だ危うい幼さを残しながらも、愉しげに細められたその眼は捕えた者を魅了して止まない、不思議な妖艶さを宿している。 「だあぁもう……っと、お前ぇなぁ…っ」 「お祝い…ありがとね、鴆くん」 恥ずかしいけど、どうしようもなく嬉しい。そんな気持ちに満たされながらくすりと笑ったリクオは、鴆と過ごすこの刻こそが何よりも倖せなのだと胸の内で零すがそれも、鴆には云わずとも識れてしまっているのだろう。 ふわりと、鴆に手首を捕られ、引かれるままにやさしく抱き篭められる。安堵する馴染んだ匂いに包まれた刹那、紛れ込んだ秋桜の香りが一筋、リクオを撫でて流れていった。
12.09.23 |