[ 水紅蛍 ] 二人で蛍を見に行きたい。 何処か行きたい処はないかという鴆の問いに、そうリクオが零したのはひと月程前に遡る。 昼間はじっとりと汗ばむようになってきたが、それでも宵の口となれば未だ微かに肌寒さを覚える梅雨初め。そろそろ早い処では飛び交い始めただろうかと、鴆はふと盃に口を付けながら考えていた。 薬鴆堂の濡れ縁、当夜もまた、鴆とリクオは共にゆっくりと盃を傾けながら、つい一刻前までの細雨が残していった水無月の土の匂いを愉しんでいた。 梅雨の雨はさてこれから暑くなるぞという合図であるのに、それでいて涼の気配も纏わせるこの独特の芳香が、リクオの秘かな気に入りだった。そしてそれを知る鴆もまた、もうじき小雨も上がるかという頃合いになると、酒瓶を引っ提げ濡れながらふらりと現れる主の訪れを、手拭い片手に心待ちにしてしまっているというのがここ数日の変相であった。 「なに考え事してやがる鴆」 「いや、確かそろそろ源氏蛍が見頃のはずだったなと…思ってよ」 訊いて、一つ間を置いた後。 鴆に向けられていたリクオの両の目が、わっと喜色に見開かれた。それを見た鴆も満足そうに目を細め、そして言葉の残りを次ぐ。 「約束、してただろう?」 「あれ、覚えててくれてたのかっ」 「元は俺から振った話だし、何よりお前ぇとの約束なんだ。忘れるワケがねぇだろう」 云いながら、ゆっくりと二人の間を詰めた鴆がリクオの顎に手を掛け、軽く口付ける。ひくりと肩を震わせたリクオも、直ぐに鴆の背へと腕を回し、応えるように自らの咥内へ鴆を誘い入れた。 褥の上で交わすそれのようにきつく貪り合うようなものではなく、甘く香る酒の匂いと触れる舌先の相手の熱を、ゆったりと確かめるように互いを味わい合う。 それは一見すると戯れの様でしかし、言葉以上に切なさにも似た情欲を伝え、そしてまたどれ程に愛しさを募らせ過ごしていたかを、自らも思い知らされるものだ。 つがぬ息にリクオが先に音を上げるまで、二人は思う存分、相手の情を感じ合った。 * * * 翌日の夕刻、リクオは鴆に連れられ、日頃鴆が薬草を採りに入る山の少し手前、長めの草木をかき分けた先に続く澄んだ渓流に来ていた。 「へぇ…こんなとこがあったんだな」 「この辺じゃあまだ人間の手の入ってない、残り少ねぇ貴重な場所さ」 滑らねぇよう気を付けろよと先を行く鴆の後ろを、ひょいひょいとリクオも着いていく。 鴆と二人きり、まるで秘密の探検でもしているようなそれに、リクオは常よりも期待に高鳴っていた。子どもっぽいかと自覚はしていたが、それでも楽しみなものは仕方ないのだと自分に云い聞かせつつ。大きめの石を飛び継ぎながら、立ち止まった鴆の横へと降り立った。 「ほら着いたぞ、此処だ」 「…う、わ…っ」 云われて顔を上げ、鴆の指差す方へと目を向けた先。そこには何とも喩え難い、美しくも妖しい無数の光が飛び舞う光景が広がっていた。暗闇の中で不規則に揺らめく淡い黄緑の灯りに魅せられ、息をすることさえもが無粋に思えてしまう。 「どうだ、きれぇだろ」 「…こんなに静かに、飛ぶもんなんだな」 「ああそうさ。そして、二旬も保たねぇ儚い昆虫だ」 「そう、なのか」 頷きながら、リクオはきゅっと小さく口の端を引き結び、そのまま遠くの飛び交う蛍へと目を遣って薄く目を眇め、眉根に力を篭めた表情をした。 それに気付いた鴆はしまったとばかりに唇を軽く噛み、それから叱咤するようにリクオの頬をつまんだ。 「何辛気くせぇ面になってやがるリクオ。確かにこいつらの命は、そりゃ短ぇかもしれねぇ。それでもな、好いた奴と添い遂げる為に、こうして力絞って手前の全てで求愛してんだ。それこそ粋ってもんじゃあねぇか?」 「…鴆」 それでも尚、何処か弱い語気で下を向いたままのリクオに、鴆はそうだと徐に声を上げ、懐をがさごそと探って何かを取り出し再び声を掛ける。 「どれリクオ、ちょいと腕貸してみな」 「腕?」 鴆に云われ、リクオは素直に右腕を差し出した。一体何だと不思議に傾げている間に手首を取られ、袖の捲れたところへ点々とぬめりのある何かを塗り付けられる。 「こっちのみーずはあーまいぞってな。今塗ったそいつはな、蛍の好む香りが練り込んである特製の軟膏だ。ほら、ちぃとじっとしててみな」 すると鴆が軟膏を塗り終えるや否や、何匹かの蛍が吸い寄せられるようにリクオの腕へと集まってきた。 わっわっと驚きを抑えることを忘れたリクオが、おい鴆っと勢いよく顔を上げて鴆を見る。薄暗さによく見えないが、きっとその目許は驚きと昂奮で紅潮しているのだろうと判る。 「お前の作ったそれ、すげぇな」 だろ? と腕を組み直しながら鴆は、リクオの顔に笑みが戻ったことに心中でひそりと安堵した。一刻前のやりとりをはぐらかすようにしてしまったことへ若干気の咎めを覚えたが、今宵はリクオに苦しい顔をさせる為に此処へ連れて来たのではない。だから今は、これでいいのだ。 それから二人、仄かに不思議な心地に香る軟膏を躰のあちこちに悪戯のようにじゃれ合いながら塗り付けていき、淡く瞬き続ける蛍のやさしい光に包まれながら、暫しの間、何に縛られるでもない互いだけのこのひと時をひたすらに、愉しむことに浸った。 * * * 「なぁ鴆、小腹が空いたんだがこいつでも食わねぇか?」 さすがに草臥れてごろんと、湿っていない草っ原へと寝転がっていたリクオは、隣に腰を下ろしていた鴆にそう云ってプラスチックの入れ物を唐突に差し出した。その中には、桜餅が四つばかりころりと詰められている。 「家の炊事場からくすねて来たやつなんだけどよ」 「なんだい、リクオも菓子、持ってきてたのか」 すると次いで懐から紅葉饅頭の包みを取り出し、鴆が悪戯っぽくにやりと笑った。 どうやら浮き足立っていたのは互いに自分だけではなかったという訳で。何ともこそばゆいような気持ちになりながらも、それがどうしようもなく、嬉しくてたまらない。 まるで示し合わせて持ち寄ったかのようになった菓子をつまみながら、先に口を開いたのはリクオだった。 「なぁ鴆。また来年も、連れてきてくれよ」 「もちろんさ。来年だけと云わず、再来年もまたその次の年も、何度だって連れて来てやらぁな」 「約束、だからな」 「ああ、約束だ」 どちらからともなく、二人の視線が絡まりそして、愛おしさを目一杯含ませて鴆は、リクオの耳に掛かる髪を梳き、その頬を撫でた。 すりっと、添えられた鴆の手のひらにそのまま頬を擦り寄せてリクオは、その上から自分の手のひらを重ねる。そして伝わってくる鴆のその温もりに静かに息を零し、約束だからなと、小さく再び呟き、鴆も気付かぬ程の刹那で一度だけ、切なげに瞬いた。
12.06.24 |