[ 蜜水 ] ふと、前触れもなく目が醒め身を起こした。 障子戸の隙間から薄すらと溶け込んでいる仄かな蒼が、まだ宵の明けていない刻であると静かに告げる。 「ん、リクオ?」 低く掠れた声で呼ばれ視線を引き戻されれば、見遣った先、穏やかに眇られた情人の眸とかち合った。先刻までの熱を孕んだ記憶が、微かな朱となり知らずその目許へと灯る。 「…すまねぇ、起こしちまったか」 「いや、お前が寝てからまだそれ程経っちゃいなかったからな。そのまま、」 申し訳なさそうに落とされた声に答えながら、するりと浚うよう、鴆は右手でその身を起こし、もう片方の手のひらでリクオの頬を撫でた。 「お前を眺めてた」 「……………、なっ」 そっと笑みを深めた男の言葉に、二三度瞬く間呆けたリクオははっとしてその手を払い退け、勢いよく夜具を手繰り寄せて顔を覆い隠す。 「おいリクオ」 「オレの寝てる面なんか眺めて何になるってんだ!つまんねぇだけだろ…っ!」 余程の羞恥であったのか、リクオは布を介してくぐもった声を荒げて非難を飛ばす。そんな姿に苦笑を交えつつも、鴆は夜具越しにぽんぽんと宥めるよう、愛しい子の頭をさすった。 「別にいいじゃねぇか。お前の寝顔を見てるとな、俺が安心できるんだよ」 だから、な?という問いの後、リクオの被ってる布団がぴくりとも動かなくなったと思ったら、もそもそと前髪と鼻先が僅かに見える程度だけ顔が出てきた。 「……オレが…恥ずかしい…」 耳元まで真っ赤に染めたリクオは鴆と視線を合わせることなく息を吸い込むと、今度は萎んだ消え入りそうな声でいらえを返してきた。その様子がさながら悪戯を叱られた子どもの様で、どうにも庇護欲を掻き立てられる。鴆はふと思い立ち、目下ご機嫌斜めのようである相手に唐突な問いを投げ掛けた。 「そうだリクオ、お前どっか出掛けたいとことかないか」 「あ?何だよ藪から棒に」 「いや、ただのでぇとってやつさ。特別なことなんてねぇよ。どうだ?気晴らしにでも」 「…デート……デート、ねぇ」 少しの間が空いてから、くっくと控えめな笑い声が隣から漏れ聞こえてきた。どうやら言い慣れてない単語を口にした相手の誘い文句を愉快に感じたようで、小さく肩を震わせている。 「おいてめぇリクオ!何笑ってやがる!!」 「だっておめぇ…くくっ、デートが明らかにひらがなになってたじゃねぇか」 「う、それは…いちいちうるせぇな。大事なのは気持ちの問題だろ?…ったく、ほら、どっかないのかよ」 むすりとした鴆に、先刻の仕返しだと云わんばかりの悪ガキの笑みを湛えながらすまねぇすまねぇと非を詫びて、リクオは暫し真面目な面持ちで思考を巡らせ始める。そして何かを思い出した風にはっとその切れの長い目が開かれ、ぽそりと望みが落とされた。 「……たる」 「ん?」 「蛍、見に行きてぇ。オレ一度も見たことねぇんだ、だから」 鴆と一緒に見に行きたい。 「蛍か。それならとびっきりの眺めが味わえるとこ、俺が教えてやる」 「ほんとか!約束なっ」 「ああ、約束だ。楽しみにしとけよ」 頭から夜具を被っていたリクオには、突如もたらされた気持ちの高ぶりにいつの間にか肩にすらもそれが掛っていなかった。綻んだ嬉しそうな声色に、鴆の胸にもほっと安堵が滲む。 そして目蓋へと触れるだけの親愛を落とすと、リクオはふるりと小さく身じろいだ。その仕草がたまらなく愛おしくて、そのまま唇へと重ね合わせその柔らかな下唇を食み、リクオがそこにあることを確かめるようゆっくり、そっと愛しんだ。 百鬼の全てを背負い込むには、未だ小さいその背中。 エゴであってもいい。甘えて欲しい。 先陣を切り、僕を統べる姿から発せられる威圧と妖艶で涼やかなその眼差しは圧倒的で、誰も彼もが臆し、魅了させられる。 しかし時折こうして垣間見せる年相応の表情と対峙する度、ぐっと胸が締め付けられるような塊を感じては無理やり嚥下させてきた。 だから、せめて。 この腕の中に在る間だけでもと祈りながら、鴆は己のそれよりも華奢な躰を、やさしくやさしく、抱き締めた。
12.05.26 |