江戸の町の片隅に、三代続く「奴良組」という老舗の仕立屋があった。 店の主人は齢十三の、やわらかな栗色の髪を持つ少女で、その見た目は年相応というより幾分か幼い容姿をしてはいたがしかし、確かな腕と生まれ持った気立ての善さが評判を呼び、四囲からは「御嬢」の愛称で可愛がられていた。 二代目であった父親は、少女がようやく五つになる頃、愛情に包まれる幸せしか知らぬままの彼女を残し、病で先に逝ってしまった。 誰もが惹かれる笑顔を携え、少女は今日も、鋏を片手にひたむきに仕立ての仕事をこなしている。 父の形見の裁縫鋏は、研げば研ぐ程に、よく切れた。 [ 巴 ] 「いらっしゃい。お預かりしていたもの、仕上がってますよ」 ふわりと、愛くるしい笑みを小さな口許に載せながら、少女はお客を迎え出た。 いつもの朝、暖簾を掛けるや否やガララと戸が開けられて、次々とお客がやって来る。 仕上げたものは、屋敷の他の者でなく自分の手でお渡しする。それが少女が大切にしていることであり、店が繁盛している訳の一つでもあった。 「御嬢、今回も良い仕事だね」 「そう云っていただけて、何よりです。父の残してくれたこの店だけが、今の自分のすべてなので」 またどうぞ、ご贔屓に。会釈と供に、迎えたときと同じやわらかな微笑みを浮かべた後。 薄らと細めた眼で、お客の去った土間をくるりと見遣った少女はほぅと小さく溜め息を洩らした。 (もうしばらくと、とんとお姿をお見掛けしないと思ったら…) 少女には、伴に在ることを契った男がいた。 幼いながらも、慕う気持ちは日に日に膨れ上がるばかりだったが、その男は困ったことにふらふらと、気紛れのような浮気が絶えなかった。 そんな男の横切る姿が、先程お客を相手にしていた最中、開かれた扉と暖簾の隙間のその先に、確かに見えたのである。 (…隣に居た女の人は、誰だったんだろう) 紫紺の着物に、濃紅の羽織を羽織っていたとても背の高い、綺麗な人。 一瞬だけ見えた女の切れの長い目と、その人の肩に添えられていた男の手が、瞼の裏に焼け付いて離れない。 (いつものこと、いつものこと) 大丈夫、あの人が本当に愛してくれているのは自分だけ。そう云い訊かせて少女はぱちんと、潤みそうになった眼をぎゅっと瞑り、頬を両の手で軽く叩いてから顔を上げた。 出掛けてこよう。気持ちが曇ったときは、賑やかな町へ出るのが一番だ。 しかしその前に一つ、途中にしてしまっていた仕立てを片してしまおうと、形見の鋏を少しだけ研いだ。 大切な大切な裁縫鋏は、研げば研ぐ程に、よく切れる。 「ごめんね、ちょっとの間だけお店番、よろしく頼んだよ」 にこりと、雪のような透き通る白い肌の世話人に笑い掛けた少女は、桜の染め抜きがあしらわれた藍色の羽織を手に取ると、逸る気持ちで足早に店を後にした。 続
13.01.23 |